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「猿」がつく地名のおはなし⑤(言い伝えのある地名:猿楽など)

地理その他

こんにちは。二助企画です。

 

「猿」がつく地名のお話、まだまだ続きます!前回は、東京江東区の「猿江」についてご紹介しましたが、東京には、他にも「猿」がつく地名があります。

 

まずは、渋谷区の猿楽町(さるがくちょう)。渋谷区のウェブサイトには、その地名の由来を『鎌倉時代に、源頼朝がこの地で猿楽を催し、その道具を埋めたから』と紹介しています。加えて、『風景の良い所だったので、昔、長者が宴を行い心のウサを晴らしたので「去ヶ苦」と言われ、後に「猿楽」と記すようになった』との説もあるとか。

 

葛飾区にもかつて、「猿」のつく地名がありました。約770年前、鎌倉時代の文書には、「猿俣」(さるまた)と記されている地域が。その後、江戸時代に呼び名は「猿ヶ俣」(さるがまた)に変化。1981年までは「水元猿町」(みずもとさるまち)と呼ばれていたそうです。ただ、残念ながら、なぜ「猿俣」という地名になったか詳しくはわかっていません。

 

「俣」は、川が合流したり分かれたりする場所を指す言葉。かつて「猿俣」と呼ばれていた地域は、現在の水元・東水元・西水元・水元公園の一部にあたります。水元公園は、その名の通り、水に恵まれた場所で、江戸川と中川を結ぶ小合溜(こあいため)という準用河川を中心とした水郷公園。以前(202391日)のコラムでも触れたように、「猿」も川や水に関連する意味合いを持つようなので、このあたりは、とても水が豊かだったことを指すのかもしれませんね。

 

一方で古の人々は、「さる」は「去る」という意味があるとも考えていました。地元の方は、「去る」は縁起が悪い言葉であるとして、「やえんまた」とも呼んでいたそうですよ。

 

今はなき「猿のつく地名」は、他にも。

 

台東区浅草にはかつて、「猿若町」(さるわかまち)と呼ばれていた町がありました。もともと大名屋敷であったのですが、江戸時代の終わりごろ、時の老中水野越前守(えちぜんのかみ)が、江戸中の芝居小屋を一ヵ所に集め、新しく町をつくりました。大きな三つの芝居小屋(中村座、市村座、河原崎座)を中心に、小さな芝居小屋もたくさん集まり、猿若町は、たくさんの人々でにぎわう、娯楽の中心地だったようです。

 

では、ここはなぜ「猿」がつく名前となったのか?

 

それは、猿若勘三郎(江戸時代始めの寛永1624年頃の人)の名前から、と言うことです。猿若勘三郎は、「猿若」という名の歌舞伎狂言をつくった人。中央区内の中橋と呼ばれていた場所に、「猿若座」を開きました。これが、江戸歌舞伎芝居の始まりと言われており、江戸歌舞伎の中心街であったこの場所が「猿若町」という名前になった、という説があります。

 

今でも「猿」がつく地名は、たくさんありますが、かつては、もっとたくさんの猿がつく地名があったのでしょうね。このテーマ、まだまだたくさんご紹介していきたいことがありますので、次回以降もお付き合いくださいね!

 

二助企画は、日本の伝統芸能猿まわしのプロフェッショナル集団。

猿まわしやニホンザルのことについて、あらゆる領域から情報発信をしてまいります。

ブログは毎月2回、第1・3金曜日に公開予定。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

また次回のブログでお会いしましょう!

 

 

主な参考文献・サイト(順不同)

・日本の地名の意外な由来/日本博学倶楽部/PHP研究所

・続日本の地名‐動物地名をたずねて‐/谷川健一/岩波新書

・渋谷区

https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/shibuyaku/introduction/uraig.html

葛飾区史

https://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/child_hosoku_1.html

錦絵で楽しむ江戸の名所

https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/saruwakacho/

浅草情報何でもおまかせ「浅草い~とこ」

https://asakusa-e.com/tokushu/tokushu21.htm

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

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