「猿」がつく地名のおはなし⑦(言い伝えのある地名:猿屋町)
こんにちは。二助企画です。
「猿」がつく地名のお話。前回お伝えした通り、今回は、台東区浅草にかつて存在していた「猿屋町」(さるやちょう)についてのお話です。現在の住所では、台東区浅草橋2丁目、3丁目あたりを指します。猿屋町については、猿まわしに関する言い伝えがあり、二助企画としても、とても親しみを感じる場所なんです。
町名の由来には、
- 越後猿屋村から出て来た猿屋加賀美太夫が住んでいたから
- 猿引き(猿まわし)が多く住んでいたから
という2説があるようです。
まずは①の「越後猿屋村から出て来た猿屋加賀美太夫が住んでいたから」ついて。
東京都台東区鳥越に、651年創立という古い歴史を持つ鳥越神社があります。その鳥越神社の境外末社として、かつての猿屋町(現浅草橋3丁目)に加賀美粂森稲荷神社(かがみくめもりいなりじんしゃ)という神社があります。
鳥越神社の発信によると、この加賀美粂森稲荷神社は、江戸時代、加賀美粂森太夫と言う猿まわしが、馬の病気を治す祈祷をした由緒ある神社だということ。このあたりが、猿屋町と呼ばれるようになったことと深い関係がありそうですね。
また江戸幕府編纂の『御府内備考』にも、加賀美太夫のことが記されています。『御府内備考』は公文書であるため、信用できる情報のようです。
一方②の「猿引き(猿まわし)が多く住んでいたから」について説明するために少し、江戸の猿まわしについて、ご紹介しますね。
実は、猿まわしについては、古い歴史があるにも関わらず、その実情は書物ではあまり語られてきていません。ただ、江戸の猿まわしについては、置かれている状況が異なり様々な文献で、その実態を知ることができます。
江戸において、猿まわしは組織化され二人の猿飼頭、長太夫と門太夫が統括していました。そしてその猿まわしは、町奉行の管轄下にありましたが、実態としては、当時の弾左衛門(だんさえもん:江戸時代13代続いた全関東の被差別民衆のリーダー)が支配していました。
この弾左衛門は、当初鳥越に住んでいたのですが、正保2年(1645年)に、浅草新町の塀と堀に囲まれた「囲内」と呼ばれた地域に移り住みました。そこに、15軒の猿まわしが家を持っており、このあたりが猿屋町と呼ばれていたということです。
いずれの説をとっても、浅草と猿まわしは、深い関係があることがうかがえますね。
二助企画は、日本の伝統芸能猿まわしのプロフェッショナル集団。
猿まわしやニホンザルのことについて、あらゆる領域から情報発信をしてまいります。
ブログは毎月2回、第1・3金曜日に公開予定。
最後までお読みいただきありがとうございました。
また次回のブログでお会いしましょう!
主な参考文献・サイト(順不同)
・日本の地名の意外な由来/日本博学倶楽部/PHP研究所
・続日本の地名‐動物地名をたずねて‐/谷川健一/岩波新書
・猿まわしの系図/飯田道夫/人間社
・日本の神社・寺院検索サイト‐八百万の神
ほか